障害・医学・教育研究会誌 Vol.4(2002) p131-198
――養護概念の変遷の検討を中心に――
鈴木裕子
目 次
1.問題の所在
2.研究の目的
第1章 養護教諭の成立と職務の変遷
1.養護訓導制定までの経過
2.養護教諭の職務の変遷
1.「養護」概念の起こりと日本への導入
2.「養護」の発展
3.養護概念・養護機能に関する議論
1.養護学校・養護学級の名称の確立
2.特殊教育と養護教諭
1.看護と養護
2.その他の領域
結論
1.問題の所在
(1)「養護」の本質の追究の必要性
養護教諭は学校教育法第28条(第40条で中学校、第50条で高等学校、第76条で盲・聾・養護学校に準用)によって、「児童の養護をつかさどる」と定められている。この他にその職務について定めた法規・通達はない。このため、この「養護」をめぐって、「養護教諭の専門性とは何か」「養護教諭の役割とは何か」が問われ続けてきた。
小倉1)は養護教諭養成機関の教員として、「健康を保持することの教育的意義や、その面を専門職として分担する養護教諭の職責となると、『養護』の概念をさらに分析的に明らかにし職務内容として把握する必要が生じてくる。『養護教諭の職務の本質は何か』という問題の中核として、この養護の意味を追求することが含まれている」と述べ、養成制度も未確立であった1960年代から養護教諭の専門性の理論化の研究を先進的に行ってきた。その背景には、養護教諭は専門職であると言われながら、独自の学問的基盤がなく、その養成においては近接領域である看護学等に依存し、職務遂行上もその技術や方法論を援用してきた経過がある。このことが、養護教諭を看護職と同一視したり、救急看護のみに養護教諭の専門性を期待したりするという誤解につながってきた可能性も考えられる。
学校という教育の場における養護教諭の活動には臨床看護とは異なる理論的根拠が存在するのではないかという指摘は以前からなされてきた。しかしそれを明らかにしようとする研究はまだ少なく、また養護教諭の役割も時代とともに変化し、その本質について十分な議論が深められていないように思われる。
例えば1994年、いじめによる子どもの自殺という事件が起き、大きな社会問題として取り上げられた。文部省は「いじめ対策緊急会議」を設置し、ここで養護教諭はいじめの兆候に気づきやすい立場であるということから、いじめ問題への適切な対応や養護教諭の保健主事への登用などを新たに示した。次いで1997年、保健体育審議会の答申2)が出され、その中で養護教諭の新たな役割として「心や体の両面への支援を行なう健康相談活動(ヘルスカウンセリング)」の重要性が強調された。養護教諭の中にはカウンセリングについて専門的に学ぶ者も表れてきたが、近年学校にスクールカウンセラーが配置され始める中で、養護教諭の分担する専門性について示せる定義や規準が十分でない現状がある。
また、同答申ではいじめに関する心の健康問題だけでなく、薬物乱用、性の逸脱行動、肥満や生活習慣病の兆候、不登校などの深刻化する現代的課題も指摘され、それらの予防につながる健康教育の充実が述べられている。それを受けて1998年の教育職員免許法一部改正の際には、養護教諭が教諭としての兼職発令を受けて授業を保健の授業を担当できることになったが、養護教諭が保健室を空けて授業に出ることが望ましいのかどうか、養護教諭の間でも意見が分かれている3)。
その一方で、養護教諭に関わる別の課題も生じている。ノーマライゼーションの進展により、養護学校、さらには通常学校にも医療的ケアを必要とする児童生徒が通学するようになってきた。これらの特別な健康管理を必要とする子どもたちに、養護教諭としてどう関わるのか、医療的ケアを実施できるのか、もし看護職が配置されたとき養護教諭と看護職はどのように仕事分担をするのか、などの議論が盛り上がっている4)5)。この問題は養護教諭と看護職の違いを問われる、まさに養護教諭のアイデンティティに関わる重要な課題である。
これらのことから、近年、状況の変化に振り回されない「養護」の固有の概念を追究し、専門職としてのアイデンティティの確立をはかっていく必要性が強く主張され始めている。三木6)は「如何に社会が変化しようとも時代を超えて変わらない価値あるもの、かつ変化に即応し柔軟かつ適切に応え得る養護の本質の追究」を主張する。後藤7)は、「今こそ、養護教諭の専門職としての真のアイデンティティーの確立を目指す必要があり、そのためにはその専門性を確固たるものとして自他に明らかにすることが必要である」と述べる。
(2)養護の名称の問題
「養護」という語は養護教諭関連以外にも教育・福祉の分野で幅広く用いられている。特殊教育では「養護学校」「養護・訓練」という用語が定着しており、また福祉関係では「児童養護施設」「養護老人ホーム」などの名称が一般化している。「養護」をキーワードにNACSISによる文献検索をしたところ、検出された200件の著作のうち46.5%が障害児教育に関するもの、28.5%が社会福祉・養護施設に関するものであり、養護教諭・学校保健に関するものは25.0%であったという報告がある8)。
そのため、特に同じ教育分野の職業として「養護教諭」と「養護学校教諭」の混同・混乱が見られるという指摘がある。小倉はかつて養護教諭養成機関に養護学校教諭を志望するものが入学してきた例を紹介している9)。各種事典で「養護教諭」の解説を調べた小林10)は、「児童学事典」(光生館、1977)では「養護教諭:小中学校、盲聾養護学校において児童生徒の養護に当たる教諭。養護学校教諭と混同してはならない」とあるものの、「現代教育小事典」(ぎょうせい、1980)では「養護教諭?養護学校」とあり、混乱が見られるとする。また小林は、現職養護教諭を対象に調査を行った結果、養護学校教員と間違われると解答した者が51.4%いたことも報告している。こうしたことから養護教諭の中にはこの「養護教諭」という名称に対して否定的なイメージを抱いたり、名称を変えるべきではないか、という主張もみられる11)。このことについて、1965(昭和40)年に日本教育大学協会が文部大臣に提出した「教育職員免許法改正に関する意見書」の中の一項目として「養護学校教諭と養護教諭との名称の紛らわしさを避けるために、養護教諭の名称を例えば学校保健教諭(仮称)と改める」という内容が入っていたとされる12)が、その後特に動きはみられないまま推移している。
また近年は、「養護教諭」の英訳についても議論がある。従来国際的な学会においては、school nurse、nurse teacher、YOGO teacher、YOGO-KYOYUなど使用者の意向によりさまざまな表記がなされ、統一をみていない。鎌田13)は国際会議出席者(12カ国31名)に対してアンケートとインタビューを実施し、養護教諭に近いと思われる英語表記を選択肢から選ばせた。その結果、School Health Teacher、School Nurse Teacher、School Nursing Teacher、Health Promotion Teacherなど考案した造語はいずれも現実的でなく、実態にそぐわないものであることがわかったとしている。日本養護教諭教育学会でも数年来、同学会名の英語表記について検討を続けているが、未だ集約できていない14)。その理由の一つは養護教諭が教育職員であるという諸外国にない日本独自のユニークな職種であり、一般に通用する類似職名に容易に置き換えられないことにある。また仮に固有名詞を用いてYOGO teacherなどと表記した場合、YOGOをどう説明するかの共通理解がはかられていないという問題がある。まさに養護教諭のアイデンティティの曖昧さ、理論的基盤の弱さが露呈する問題であるといえる。
2.研究の目的
以上のような問題状況を踏まえ、本研究の目的は、養護教諭の「養護」について史的に検討するとともに、関連分野での「養護」の概念に関する種々の解釈や議論の内容を整理することで、養護教諭の専門職としての独自性や、時代を超えても変わらない養護教諭の核となるものについて展望を見出し、アイデンティティ確立に向けての一定の知見を得ることにある。
この目的を達成するために、特に以下の点を課題として設定し、検討を行なうことにした。
①「養護教諭」の「養護」と、「養護学校」の「養護」の概念的相違
②養護教諭の職務内容の変遷の要因
③養護教諭の他の職種には見られない独自性
検討の方法は、先行研究の中でいくつかの代表的なものを基礎資料とし、課題に沿って関連資料や文献、各種紀要や学会に発表された論文等を収集して行なった。
序章で引用した文献
1)小倉学:学校保健と養護教諭の職務、学校保健研究5(1)、1963
2)保健体育審議会答申:生涯にわたる心身の健康の保持増進のための今後の健康に関する教育及びスポーツの振興の在り方について、学校保健研究39、pp457-471、1997
3)滝澤利行ら:ミニシンポジウム養護教諭は保健の授業を担当すべきか、学校保健研究、40(Suppl.)、85-92、1998
4)鎌田文代・中村朋子:養護学校における医療的ケアに関する研究―文部科学省委嘱事業の取り組みから―、茨城大学教育実践研究21、pp171-183、2002
5)特集養護教諭に関わる医療的ケアを考える、健康教室54(1)、東山書房、2003
6)三木とみ子:21世紀の学校教育と養護教諭、日本養護教諭教育学会誌5(1)、pp107、2002
7)後藤ひとみ:21世紀の養護教諭に期待する「職のあり方」、全国養護教諭連絡協議会第7回研究協議会抄録集,33-34、2002
8)砂村京子ほか:日々の対応からみた「養護」に関する研究第1報、日本養護教諭教育学会誌4(1)、15-26、2001
9)小倉学:養護教諭―その専門性と機能―、122-124、東山書房、1970
10)小林育枝:「養護」に関する研究―特に養護教諭との関連で―、学校保健研究、40(Suppl.)、452-453、1998
11)辻立代:「養護学」でなく「保健養護学」として確立を、日本養護教諭教育学会第8回学術集会抄録集、20-21、2000
12)小倉学:前掲書9)pp212
13)鎌田尚子:養護教諭の英名表記と専門性確立に関する一考察、学校保健研究、44(Suppl.)、300-301、2002
14)岡本陽子ほか:「養護教諭」の英訳ワーキング経過報告、日本養護教諭教育学会第10回学術集会抄録集、42-43、2002
本章では、養護教諭制度の成立過程と職務の変遷をその時代背景とともに分析し、現在の教育職員としての身分がどのように確立されていったのか、またその職務が何によって規定され、どのように変化してきたかを検討する。養護教諭およびその前身である養護訓導の制度史は昭和16年の「国民学校令」に始まるが、そこで「養護」という語を冠した訓導(教育職)として位置づけられ、「児童の養護を掌る」という職務を獲得するに至った理由には、それ以前からの経過や当時の社会状況等の影響があるものと思われる。そのため第一節では、制度確立以前の動向を明治時代後半にさかのぼって整理し、当時の文部省や学校看護婦自身がその身分や待遇をどのように考え、それが制度確立にどう影響したかを検討する。それをふまえて第二節においては制度確立以後の職務の変化を中心に、その変化の要因や課題について考察する。
第一節 養護訓導制定までの経過
学校看護婦から養護訓導にいたる経過の先行研究としては、杉浦守邦氏の著書「養護教員の歴史」1)が最もよく知られている。本節ではそれを基礎資料としつつ、当時の社会状況を記した文献やその後明らかになった事実や解釈を加えて、教育職としての制度確立にいたる経緯を再検討する。
1. 学校看護婦の登場
日本で学校衛生制度の整備が始まったのは、1890年代(明治30年前後)といわれる。この時期は日清戦争を経て日露戦争へと向かう時期に当たる。国民生活は窮乏し、度重なる伝染病流行により栄養状態・健康状態は悪化の一途をたどっていた。一方で富国強兵策の一環として、青少年の体力増強が重要課題とされていた。
1896(明治29)年、勅令により文部省に初めて学校衛生主事および学校衛生顧問制度がおかれた。以来「学校清潔方法規程」「学生生徒身体検査規程」や、「公立学校ニ学校医ヲ置クノ件」(学校医令)が定められ、学校衛生施策が次々と制度化された。当時は学校の施設設備の整備が十分でなく、非常に不衛生な状態であったとされる2)。このため当時の学校衛生は、影響下にあったドイツの学校衛生に範をとり、医学者による教育施設への批判を中心としたものであった。当時制定された学校医職務規程では、「一 換気ノ良否、二 採光ノ適否、三 机腰掛ノ適否、四 前列及最後列ノ机ト黒板ノ距離・・・」といった環境衛生に関する調査と、「生徒ノ身体検査」「伝染病ノ発生シタル時」等への対応が定められている3)。これは当時多発していた伝染病、脊柱彎曲および近視への対策として、環境衛生と身体検査に重点を置くものであった。
この時期明治政府は義務教育制度の推進のため、就学率向上策をとろうとしていたが、生活の困窮が原因で就学の実態は東京市でも40%程度であったといわれている。学童の多くは皮膚病や眼病を患い、特に日清戦争によって持ち込まれたトラホームは急激に学童に蔓延し、児童の30~80%が罹患していたという。親たちからは「学校に行かせたいが、眼病が移るのは困る」という声が上がった4)。当時の衛生施策による厳重な検診と登校停止を主とした対策はいっそうの登校率の低下を招き、授業に支障をきたす状況であった。そのため、各地で独自の対策がとられるようになった。対策には、学校に治療所を設けるもの、学校職員に技術を修得させて洗眼・点眼させるもの、専門技術者(看護婦)を雇い入れトラホームの治療に従事させるものなどがあった。
初めて学校に看護婦を校費で雇用したのは岐阜県の小学校2校で、1905(明治38)年のことである。両校はトラホームの罹患率が県平均に比べ著しく高率であった。放課後治療室において看護婦が点眼治療を行なった結果、一方の竹ヶ鼻小学校では罹患率が66.4%(38年4月)から1年半で24.1%(39年9月)まで低下するという著しい治療成績をあげた。同様に翌年岐阜市内に配置された派遣看護婦は、後に市職員の待遇となり28年間も勤務している。
その後数年の間に、横浜市、大阪府堺市をはじめ、10以上の自治体において公費・私費(学校の奨励会経費等)で看護婦の採用が行なわれた。中には救急処置や身体検査、行事の随伴なども職務とする者もあったが、主要任務はいずれもトラホームの治療であり、勤務形態は巡回やパートタイムであった。
この時期の動向で注目しなければならないのは、学校医の場合、当初から勅令によって制度的に設置がなされると同時に職務規程が定められていることである。これに対し、学校看護婦はトラホーム対策として地域の要請から自然発生的に設置が始まり、その身分や職務について共通に定めた規程は一切なかった。しかし看護婦としての知識や技術をもって子どもに接すれば、その職務は洗眼処置にとどまらないことは当然考えられる。前出の岐阜市看護婦広瀬ますの回想録「学校看護婦として過去20余年間の私の追憶」には、次のような一文がある。「トラホームが流行して猖獗を呈する逞うして居た時でございましたから、先づ以て其の撲滅を計ると共に、家庭にも之に対する予防手当をなすことの理解を与へるといふ事を第一の目的といたしました。」「何分只今とは違ひまして、世の中に学校看護婦といふものはなく、(中略)何となく地位も不安に感じられた心細いやうな淋しいやうな思ひをしました事も、一度や二度ではございませんでした」5)。また、疾病予防のため「洗顔は、溜め水ではなく流れている小川で洗おう。手ぬぐいは一人一本ずつ布を切って作る」などの衛生教育を行なった学校看護婦の記録もある6)。このように、学校看護婦は当初から不安定な身分の中でも必然的に教育にかかわる仕事をしていたことがわかる。
2.一校一名駐在制の学校衛生婦
明治末期は日露戦争の時期と重なり、財政的不備を理由に行政整理が行なわれ、学校衛生制度等の廃止も相次いだ。しかし1914(大正3)年から1918(同7)年の第一次世界大戦は一時的に軍需景気をもたらし、大正デモクラシーの風潮の中、学校教育にも欧米式の新教育の思想や社会衛生学が紹介され、大きな影響を与えた。その一方で物価の暴騰などにより庶民の生活は困窮し、統計史上最高の乳児死亡率を記録、欠食児童・虚弱児童の増加、児童生徒の体力の低下、教職員の結核等も問題化した。その結果再び学校衛生が注目されるようになり、イギリス流の社会衛生的施策(学校内診療施設・学校給食等)の導入が検討された。学校看護婦に関してもその施策の一つとして、積極的に取り入れようとする機運がみられ始めた。それには大きく2つの主張があり、一つはドイツの訪問看護婦をモデルとした学童の家庭訪問を主任務とする社会事業的看護婦構想、もう一つは我が国の実情に合わせ1校1名専任制の教育的看護婦構想である7)。
文部省に学校衛生官制が復活した1916(大正5)年、大都市連合教育会総会において後者の構想に基づく「都市小学校に看護婦を置き、学校医と相俟って保健に関する職務を執らしむるの可否」と題する協議題が提案され、可決された8)。この構想が現実のものとなるのはそれから5年後のことである。
この1922(大正11)年は、学校看護婦にとって一つの転機となった年である。まず、大阪市北区の済美学区6校全てに初めて専任駐在制の学校看護婦が配置され、学校衛生婦と称されることになった。このとき定められた「事務取扱規程」の最大の特徴は、学校看護婦を学校長の指揮下にある学校職員として位置づけたことである。また職務として従来の治療補助や救急手当てに加え、校舎内外の巡視による衛生配慮、家庭訪問、家庭看護法指導など社会的・教育的役割を含む幅広い内容が明記された。雇用と勤務の形態や職務内容から、これが今日の養護教諭に直結する学校看護婦の出現とする研究者が多い。大阪でこれが実現した理由として渡部9)は、既に堺市で学校看護婦規程が作られ、また先の大都市連合会で学校看護婦設置を提案するなど大阪の教育会にその機運があったこと、学校衛生技師(専門学校医)を東京のように十分採用できなかったこと、慈善活動や社会事業が活発な土地柄であったことなどを上げている。また杉浦10)は、すでに制度化されていた学校医の一校専任制の影響と、時の大阪市長池上四郎の英断とを示唆している。
これに対し東京市では、1921(大正10)年からスラム街の学校を巡回する看護婦を採用している。その目的は貧困児の救済と就学奨励であり、その任務は健康状態の調査、清潔検査、校舎内外衛生検査、家庭訪問と多様なものであった。しかしその身分は大阪の場合と異なり、欧米の学校看護婦と同様に学校に派遣される市役所職員であった。また後には緊急対策のために治療補助者として区で採用される巡回看護婦も多くあらわれた。こうした待遇の違いが後の職制制定運動につながっていくことになる。
同年、日本赤十字社が学校看護婦派遣を開始した。2名の派遣を受けた文部省はこれを師範学校附属小学校・幼稚園に試験的に配置し、学校看護婦の執務について研究を行なった。このとき定められた勤務心得をみると、校内での地位は明確ではないものの「常に教育者の一人なることを忘れざること、これを徹底せしむるために児童には学校看護婦を先生と呼ばしめること」「学校看護婦は、傷病児の看護、身体検査の補助を為すのみならず、学校設備の衛生、教授衛生、体育運動衛生、身体虚弱者の養護、精神薄弱者の養護、学校及家庭の衛生教育等学校衛生の全般に亘り執務するのみならず、進んで家庭を訪問し、家庭医或は社会的衛生施設と聨絡を取る様努むること」といった教育的・社会的役割が示されている11)。この成果は「文部省学校看護婦年報」として公表された。
この1922(大正11)年から文部省による学校看護婦の全国調査も行われるようになった。初年度は全国で111名の報告があったが、その職務の実態はトラホーム洗眼のみとする者が多数派であり、学校衛生全般を担当する者はまだ半数に満たなかった。
3. 職務規定提示と設置の拡大
学校看護婦の増加に対応するため、1923(大正12)年7月、文部大臣官房学校衛生課より「学校看護婦執務指針」が発表された。ここでは学校看護婦の業務を校内勤務と校外勤務の二つに分け、前者では「概ね学校医執務の補助者として働くもの」(傍線筆者、以下同)であり「濫りに独断専行せざるよう心掛くべきものとす」と位置づけたうえで、従来のトラホーム洗眼にとどまらず児童および校内各所の視察、身体検査や衛生教育の補助などの幅広い任務を示している12)。後者については「学校医の自ら、生徒児童の家庭を訪問するは至難事に属し、教師の家庭訪問も衛生事項の連絡に及ぶこと十分ならざるを常とす」として学校看護婦による家庭訪問を重視している。しかし大阪市のような教育的任務をもつ教育職員とは扱われていない。
同年11月、全国学校衛生主事会議において、文部大臣諮問「学校看護婦の適当なる普及方法及職務規程如何」の答申として「学校看護婦職務規定」案が示された。これは翌年、各地方庁へ職務規定を定める際のモデルとして配布された。この答申では一転して学校看護婦の身分を「学校長の監督を受け」「勤務は校規の定むる所に従ひ、教員に準ず」と示し、教育職員と位置づけている。その職務にも学校医の職務の補助のほか、「必要により家庭看護法の実習指導をなすべし」として教育的任務が加えられている。先の「指針」と同じ年に文部省から示されながら、双方の内容がこれほどに異なる理由については明らかではないが、同年の巡回看護婦配置の失敗が影響しているのではないかと推察される。この年6月、日赤から文部省に3人目の看護婦が派遣された。文部省は欧米のように「学校を巡回して主に家庭訪問に従事する役場吏員」としての学校看護婦の検討のため、この看護婦を渋谷町役場に勤務させ、8校の学童の家庭訪問に当たらせた。しかし結果は家庭の理解が得られにくく受け入れがよくなかったため、半年で廃止となったのである。こうした状況から、今後学校看護婦を学校職員として位置づける方針を固めたのではないかと考えられる。
この1923(大正12)年には、文部省学校衛生課長北豊吉が欧米の学校衛生事情視察から帰国し、「今後日本において学ぶべき施策は、学校看護婦の普及とスクールクリニックの開設、および学校給食の徹底にあり」として学校看護婦の設置も積極的に奨励した。11月の諮問もこの一環と思われるが、これ以降、各地で学校看護婦の設置規則や執務規定が制定され、全国的に学校看護婦が急激に増加していった。その数は3年後の1925(大正14)年に約5倍の504名、6年後の1928(昭和3)年には10倍の1199名となった。資格は大多数が看護婦免許所有者であったが、有資格者の不足や、教師兼務を意図して、女子師範学校生や高等女学校卒業者に専門研修を行なって採用する府県もあった。文部省は1924(大正13)年から毎年、現職の学校看護婦やその希望者を対象に学校衛生講習会を実施し、その養成に努めた。しかし地域の状況により採用者の身分、職務はまちまちであり、その名称も「学校衛生婦」「学校看護手」「医務補」などさまざまであった。
この前後、「学校衛生主事会議」や「全国連合学校衛生会総会」等で相次いで学校看護婦の設置に関わる答申が出された他、大正13年の学校看護婦調査の報告の中に、次のような一文が見られ、学校看護婦への期待の高まりを見ることができる。「・・・従来は身体検査、トラホームの健診及び治療、学校設備、巡視等をもって学校衛生の全部とみなし、且つこれに従事するものも主として学校医なりしが、近時学校衛生の範囲は教授衛生、体育運動、心身薄弱者の養護の学校給食等に及び学校医、学校教員が協力してこれに当たることとなり或は学校看護婦を設置して学校衛生の実務を行わしむるもの漸次その数を増加するに至れり。学校看護婦は学校衛生の実務者にして、学校医を助け且つ学校教員と協力して学校衛生の全般にわたり実地の仕事をなすものにして、この設置が普及するにいたらば学校衛生の面目は一新し著々良効果を挙ること疑を容れず・・・」。
またこの時期学校看護婦に新たに期待されるようになった任務として忘れてならないのは、病弱・虚弱児の養護である。1926(大正15)年、養護学級が開設された東京市鶴巻小学校に日赤派遣の学校看護婦が配置され、その執務について研究を行なった。その結果、学校看護婦は学校全体の保健衛生部門の活動とともに養護学級において家庭訪問や特別養護の担当者として重要な役割を果たした。この成果は後に国民学校令で養護学級制度が正式に発足した時、養護学級設置校には必ず養護訓導を置くことにつながったと考えられている。
4. 文部省訓令「学校看護婦ニ関スル件」の公布
1928(昭和3)年、文部省の外郭団体である帝國学校衛生会はその内部組織として「学校看護部」を新設した。全国で1000名を超えた学校看護婦の組織化をはかり、学校看護事業の発展を図ろうとするものであった。事業は月刊誌の発行と全国学校看護婦大会の開催であった。機関紙「養護」は、学校看護婦の職業観・使命感の樹立を目標とし、文部省関係者の意見や講演記録、現場報告等が掲載された。1929(昭和4)年に開催された第1回全国学校看護婦大会では、文部大臣諮問事項「我国の現状に鑑み学校看護事業の発達上特に留意すべき事項如何」に対し設置規程の制定等を要望する答申を採択したほか、協議題として「学校看護婦は学校職員なりや又は市役所吏員なりや」といった疑問なども提出された。この大会は官製的な性格を持つものであったにも関わらず、当初から参加者側から身分待遇の問題点と改善の要望が多数出され、職務制定確立運動として年々高揚していった。
同1929年、文部省訓令をもって「学校看護婦ニ関スル件」が公布された。これは規準制定を要求する声に応えて、国として初めて法的に学校看護婦の位置づけや職務を示したものである。その位置づけは「学校衛生に関しては学校教職員、学校医主として之に従事すと雖も・・・学校看護婦をして其の職務を補助せしめ・・・」「学校長、学校医其の他の関係職員の指揮を受け・・・」など、自律性を持たない補助的立場に置かれ、先に「学校長の監督を受け」とされた学校看護婦職務規程より教育職員としての性格が曖昧になっている。職務は医学的職務(疾病予防、診療補助、救急処置、身体検査、環境衛生等)、教育的職務(監察を要する児童の保護、衛生訓練等)、社会的職務(家庭訪問、治療矯正の勧告、診療の同伴等)の内容が含まれていることは注目できる。この訓令は不統一だった各地の制度に大きな影響を与えたが、身分や待遇については十分な規定がなされず、課題として残された。
その理由について、当時文部省学校衛生官の大西永次郎は「学校看護婦のやうに、未だ発達の過渡期にあるものに対しては、初めから制度上の完全を期するといふことは少なからぬ無理もあり・・・今暫くは、ほんの業務上の要項を定むるに止め、資格等についても厳格な制限を設けないほうが却って時代の要求に沿ふ所以かも知れません。」と述べている。杉浦はその理由を、「身分に関する規定は、勅令またはこれに類する法律等をもって制定すべき重要な事項とされるものであって、そのためには事前に十分関係各省の同意を得て・・・その必要性が一般に十分認識されていることが不可欠である」ものの、当時の学校看護婦の設置数や設置規定を定めた府県がまだ十分多くなかったためだろうと分析している13)。また当時の社会情勢は、ファシズム体制に向かって軍事費が膨張し、緊縮財政のため新規事業は中止または延期という状況であった。国民は世界恐慌の影響もあり生活が逼迫し、粗食児童や欠食児童はますます増加していた。制度としての位置づけができなかったのはこうした財政的な問題も無視できないものと思われる。
5. 勅令案の停頓と、「養護婦」令
1934(昭和9)年、遂に文部省は学校衛生調査会に諮問し、学校看護婦に関する勅令案を検討させた。ここでは「学校看護婦は学校長の監督を承け学校衛生の実務に服すること」と明確に教育職員待遇とし、小学校教員に準じて検定により専門免許を与える制度を打ち出した。この背景には、1931(昭和6)年の満州事変以後の戦時体制により、国民体力の向上、特に青少年の体位向上や結核予防が国政の重要方針となり、学童に対する学校看護婦の任務(当時は眼病や皮膚病の治療・救急訓練等に加え、虚弱児童への肝油服用・太陽灯照射等でも多忙を極めていた)がクローズアップされてきたという社会情勢があげられる。それに加えて、全国で2400名に増加した学校看護婦たちによる5年来の草の根運動に対し、当時の鳩山文部大臣らの理解と決断があったためといわれている。
この勅令案は、国家資格である看護婦との混同を避け、名称を「学校衛生婦令」として答申された。しかし文部省内では「学校衛生の実務」という学校衛生婦の職務が教育内容であるのか、またそれを単行勅令で規定することが適当かという議論、地方財政当局からは、新しい職制の採用は地方財政支出の増加につながるとの異議、衛生当局からは看護婦規則との調整に疑義が出され、協議が難航した。そして間もなく推進派であった鳩山文相の突然の辞任により、棚上げとなってしまった。この事態を憂慮した全国の学校看護婦は、職制促進連盟を組織し、帝国議会議員を連日訪ね職制制定の建議を働きかける要請活動を活発に展開した14)。この話題は新聞やラジオでも取り上げられ、全国の学校衛生団体や校長会、教員会、学校医会などからの陳情も相次いだ。
1938(昭和13)年、再び勅令案が起草された。この案では名称を「学校養護婦」とし、職務の中にも養護という文言を加え、「学校に於ける衛生養護に関する職務に従事す」とされた。ここで「養護」という表現が出されてきた理由として杉浦は次の3点を挙げている。第一は前年の学校身体検査規程の改正である。ここでいっそう強調された要養護者の選別とその者への「保健養護」の担当者として、学校看護婦が考えられたためである。第二は同年1月に厚生省が発足し、学校衛生関係者の指導助成と学童の養護に関する事項以外は所管が文部省から厚生省に移管したことである。養護に関することが文部省に残されたのは、養護が教育的活動とみなされたことを意味し、「養護婦」とすることで教育職員としての性格を明確にしようとしたと考えられる。第3は同時期に厚生省で検討中であった「保健婦」と混同しやすい名称を避けたためであるという15)。
勅令案は再び厚生省と内務省の激しい抵抗にあった。当時の学校衛生雑誌では「(厚生省)衛生局は身分上、同省体力局は体位向上上、又同省予防局は児童生徒の治療上等の見地から容易に同意するの景色なく・・・茲に暫く停頓の状態となった」と記されている。また関係者〈文部省学校衛生係長大西永次郎〉の談として、「文部省は学校養護婦が学校に奉職する関係上、教育職員とみなし、厚生省の方では学校養護婦といえども、保健衛生関係の職務を司る以上、衛生職員であるとの見解を有し・・・」と伝えている。
全国学校衛生婦連合会は再び世論を巻き込んだ大規模な請願活動を継続した。その結果、厚生省との間で学校養護婦の職務内容を治療補助面より教育指導面におくことで文部省所管とするという合意を得た。厚生省管轄の看護婦・保健婦と文部省管轄の養護婦とが分離されることとなったのはこのときからである。
法制局では、学校養護婦の職務が教育の内容かどうかという問題が再び出された。これに対しては、半年前に答申されたばかりの教育審議会「国民学校ニ関スル要綱」の次の一項が生かされた。
九 心身一体の訓練を重視して児童の養護、鍛錬に関する施設および制度を整備拡充
し左の事項に留意すること
〈三〉学校衛生職員に関する制度を整備すること
すなわちこの「学校衛生職員」とは学校看護婦であり、国民学校の重要課題である「児童の養護・・・の整備拡充」にあたることから、その職務は教育の内容であるといえること。そしてそれを明確にするために、職務内容を「児童の養護を掌る」に変更する、ということで決着した。その後も帝国議会で「学校養護婦令制定ノ請願」が採択され「養護婦令近く発令されん」とまで報道されたが、最終的にこれを単行勅令で定めることについての了解は得られず、結局再び法制化は先送りとなった。
6. 国民学校令における養護訓導制度確立
国民学校令の草案作成の時期、その基本的考え方を示した「国民学校の教育方針10か条」には、「心身ヲ一体トシテ教育シ教授、訓練、養護ノ分離ヲ避クルコト」という項目があった。「養護」は教授、訓練と並ぶ教育の内容の一つとされ、これにより養護を担当する職員が教育職である明確な根拠が示されたことになる。そしてこれに続く勅令案の検討の中で、職名は学校養護婦ではなく「養護訓導」と定めることになった。当時の文部省学校衛生課係官荷見秋次郎は「児童の衛生養護は純然たる学校教育の内容として、当然文部省における教育官吏の重要事項と認むるの必要が痛感せられて、養護職員も学校教員と同一待遇において審議せらるることになり、遂に本年3月、国民学校令の公布とともに、養護訓導として名実共に、従来の学校看護婦の旧殻を脱して、新たなる脚光の中に、その出発を見るに至った」と記している。
こうして1941(昭和16)年、ついに国民学校令第15条に「国民学校ニハ学校長、訓導ヲ置クベシ 国民学校ニハ教頭、養護訓導及ビ准訓導を置クコトヲ得」、第17条に「訓導及養護訓導ハ判任官ノ待遇トス」「養護訓導ハ学校長ノ命ヲ承ケ児童ノ養護ヲ掌ル」との規定がなされた。これが現在も唯一養護教諭の職務を規定する学校教育法第28条の「養護教諭は養護をつかさどる」に直接つながるものであり、養護教諭の歴史において最も重要なターニングポイントとなる。「学校看護婦養護訓導となる」と報道された日の関係者の喜びようは「全国職制促進連盟加入県からは祝電、私の東郷小学校では母親が赤飯を焚き、全職員は花束を下さって、おめでとうの洪水であった。・・・(協力者だった詫摩武彦先生の)奥様は黒紋付の羽織を着て、万歳、万歳と両手を挙げて長い廊下を走って、私たちと固い握手を交わした」との記録がある16)。
ここで養護婦が急に養護訓導へと三たび名称が変更された理由についは内閣法制局との話し合いの結果とされているが17)、その背景について杉浦は次のように分析している18)。
・「教育ヲ掌ル」のが訓導なら、同じ教育者として「養護ヲ掌ル」のは養護訓導とした。
・虚弱児対象の養護学級設置にあたり、その養護担当職員の職務は教育の内容であるから、養護訓導と称するのが妥当である。
・義務教育費国庫負担法の適用を受けるためにも訓導身分が必要である。
・新しく必修科目として設けられる「体錬科」の内容に「衛生」があり、その一部を養護担当職員にも分担させる予定であったため、訓導身分が妥当である。
同様に要因を6つにまとめて分析した数見19)は、「養護-鍛錬」を一体化した「皇国民錬成」の戦時体制づくりのため政策的に養護概念を使用した(軍部の要求があった)のではないか、また制度確立を求めた学校看護婦たちの運動が当時の国策と一致したのではないかということも挙げている。また同じ論文の中で数見は、学校看護婦たちが教師との間にある差別的待遇に強い不満を持ち、教師と同等の待遇を強く求めてはいたが、教職としての位置づけを求めた記録がほとんどないことを指摘し、この職種転換は最終的には国家体制の意図に組み込まれたものであったと分析している。また森20)は教育学の視点から、その他の要因を2つ挙げている。まず、第一次新教育運動の台頭に伴い「学校の生活化」が課題とされる中で、学校衛生を教育の内容ととらえ、教育の中に位置づけようとする「教育としての学校衛生」構想の影響があった、第二に学校経営近代化を背景として教育を分業と共同という形をとる体制がとられるようになってきたことを挙げている。
1942(昭和17)年7月、文部大臣名で地方長官に対し「養護訓導執務要項」が訓令され、昭和4年の「学校看護婦に関する件」は廃止された。その内容の特徴として、以下の点が挙げられる。
・学校医の指導は医務に関してのみ受けるとされ、養護訓導の自律性が示された。
・「心身ノ状況ヲ査察」、躾・訓練の衛生分野への関与など、教育的任務を重視した。
・要養護児童の特別養護を項目にかかげ、養護学級設置校または養護学校には養護訓導を必置とした。
・従来の看護的職務を大幅に削って救急看護に限定した。
・家庭訪問に関する職務を軽減し、近く発足予定の保健婦制度との差異を明確にした。
1943(昭和18)年には国民学校令の一部改正が行なわれ、第15条で養護訓導は国民学校に必置となった。そして俸給等が国庫補助を受けられるようになり、養護訓導の数は倍加していった。
第2節 養護教諭の職務の変遷
1941(昭和16)年にようやく養護訓導として制度が整った後、現在の形で定着するまで、職務や専門性について、養成方法も含めさまざまな検討がなされている。本節ではそれらを整理し、現在に残されている課題及び新たに生じてきた課題について明らかにする。
1.養護訓導から養護教諭へ―制度上の課題―
終戦直後は、国民の著しい体力低下、結核・寄生虫・頭ジラミ・疥癬・伝染病などの蔓延がみられ、緊急な衛生対策が迫られた。学童の健康復興のために養護訓導にも大きな期待が寄せられた。養護訓導は国民学校令による免許状制度により、従来の学校看護婦からの切り替えが続々と行なわれていたが、昭和20年度の国民学校の数2万に比べ養護訓導は1750名にすぎず、全く追いつかない状況であった。そのため1946(昭和21)年に文部省体育局長名で出された「学校衛生刷新に関する件」の通牒には、以下のように養護訓導の緊急増員も勧告されている。「国民学校における養護訓導の設置及養成に関しては戦時中之が要因不足のため未設置の学校少からざるも、可及的速かに一校に付少なくも一人の養護訓導を設置するよう努むること」「例へば復員せる養護訓導有資格者の採用、並に高等女学校卒業者にして看護婦免許状を有する者に対する養成講習会の開催、又は文部大臣指定の養成機関の設置等により之が普及を図ること」21)
一方、終戦後進駐して来たアメリカ軍政部当局(GHQ)による干渉は、教育職員としての養護訓導制度を危機に直面させた。公衆衛生福祉局(PHW)の担当者はアメリカ流スクールナース(パブリックヘルスナース)に固執し、養護訓導を廃止し保健婦に切り替えるか、それが不可能ならば養護訓導は保健婦の指導下に入るように、また学校保健は厚生省の管轄に入れるべきであると強硬に主張した22)。教育関係の主管が民間情報教育局(CIE)であったことと、文部省の強い反対のために結果的には主張の多くが見送られた。しかし1946年の国民学校令施行規則の一部改正の際、訓導が「地方教官」と改称されたのに対し、養護訓導は「地方技官」とされ、一時的ではあったが保健技術者の扱いとされることになった。
1947(昭和22)年、国民学校令が廃止され、代わって学校教育法が施行された。最終的には養護訓導は「養護教諭」と改称され、第28条に「養護教諭は、児童の養護を掌る」と規定された。しかしGHQの影響は1949(昭和24)年に制定された「教育職員免許法」と「中等学校保健計画実施要領(小学校は1951年に刊行)」に残され、後の養護教諭の養成や職務の発展に大きな遅れをもたらすことになる。
「教育職員免許法」においては、教員の普通免許状は、原則的に学士の基礎資格を有し、大学卒業者に対して与えられる。すなわち教員の養成は大学において行われることになったのである。しかし養護教諭の場合はこれと全く異なり、看護婦免許を有しない者は認められないとするGHQの意向により、看護婦免許状を基礎資格として一定期間指定機関に在学するか、もしくは保健婦免許所有者に、養護教諭免許が与えられる制度となった。したがって養護教諭養成は独自の課程を有する大学ではなく、厚生省の管轄である看護婦・保健婦の養成に依存しなければならなかった。しかし当時は病院併設の看護学校による小規模な看護婦養成が主流であり、緊急な養護教諭増員要請に応えられるものではなかった。当面十分な有資格者を得られない可能性が予想されたことから、学校教育法第103条には「養護教諭についての特例」として、「小学校及び中学校には、・・・当分の間、養護教諭はこれを置かないことができる」という条文が付された。今日に至ってもこれは撤廃されず、養護教諭の完全配置の確立を妨げる要因となっている。
1953(昭和28)年、GHQの占領が解かれて、教育職員免許法の改正が行なわれた。このとき看護婦免許によらない養護教諭養成コースが新設されることになったが、制度的なスタートの遅れが尾を引き、四年生の大学課程で養護教諭の養成が本格的に始まったのは大幅に遅れて1975(昭和50)年のことであった。また従来の養成方法はほとんどそのまま残されたため、養護教諭の養成はきわめて多様な方法によって行なわれることとなった(Table.1-1)。このうち教育学や養護に関する専門科目の履修がなくとも保健婦免許のみで養護教諭免許状が取得できる制度は現在も(二種免許とはいえ)まだ残されており、養護教諭の学校教育における専門性という点で問題がある24)。
Table.1-1 養護教諭の免許状資格要件の変遷 (三木とみ子23)を一部改編)
「中等学校保健計画実施要領」「小学校保健計画実施要領」は、1949(昭和24)年にCIEの助言により作成された試案である。その中で問題となったのは、「養護教諭の職務の項目」と「保健主事制度」である。(「養護教諭の職務の項目」については後述する。)「保健主事制度」は当時アメリカにあったヘルスコーディネーターの制度を参考にして「保健計画実施要領」に盛り込まれたもので、1958(昭和33)年の学校保健法制定に伴って制度化された(現在アメリカではこの制度はすでにないようだという25))。その職務は当初「保健活動の調整に当たること」とされ、適任者として養護教諭も挙げられていた。しかし1960(昭和35)年の学校教育法施行規則の一部改正により「保健主事は教諭を持ってこれに充てる」、職務は「保健に関する事項の管理に当たる」となった。また文部事務次官通達で教育委員会が保健主事の任命をすることとなり、この結果、学校によっては保健主事が学校保健に関わる主導権を握り、養護教諭が職員会議に出席できず保健主事が一切の提案を行なう、養護教諭の出張は保健主事の許可を要する、文書の収受・保健日誌などの検閲、学校保健行事の実施を保健主事が養護教諭に命令する26)などといった、養護教諭の自律性を否定するような問題がみられるようになった。現場の声におされて保健主事の制度化を止めた自治体もあったが、混乱は続いた。1995(平成7)年になって同規則は「教諭または養護教諭を持ってこれに充てる」と改正された。これは「いじめの兆候に気づくことが多い養護教諭を保健主事に充てる」という「いじめ対策緊急会議」の提言を受けたものである。養護教諭の中にはこれを歓迎する声と主事制度そのものの撤廃を求める声とが混在しており、実際に保健主事を受けた養護教諭も少なく、問題は解決を見ていないといわれている。
2.職務研究の展開
養護教諭の制度化は、制度的には身分を確立させたが、教育現場における意識改革はなかなか進まず、また養護教諭自身も職務内容やそれについて理解を求める手だてについて悩んでいる実態が専門雑誌にしばしば掲載された。こうした課題に対して、「養護をつかさどる」の示すものについて明らかにし、職務の確立をはかろうとする試みが行なわれるようになった。
以下、そうした職務研究の動向を分析した藤田27)の論を基に整理を行なう。
藤田は、養護教諭の職務研究は、おおむね「執務論」→「本務論」→「専門性論」→「実践論」という展開がなされてきていると分析する。
「執務論」とは、執務項目を具体的に列挙しながら職務を規定していく方法で、かつて文部省が「学校看護婦執務指針」「養護訓導執務要項」などの形で規定したように、養護教諭の執務について試案も含めさまざまな項目が提示されてきた。(これを内容別に整理してみたものがTable1-2と1-3である)。
制度が未確立だった学校看護婦時代から養護訓導、養護教諭に変わってしばらくは、その職務もまちまちであり、一定の基準が求められたのは当然のことであった。文部省は1949(昭和24)年の「中等学校保健計画実施要領」において、戦後初めて養護教諭の職務を示
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Table 1-2 学校看護婦・養護訓導の職務規定 |
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学校看護婦執務指針(1923) 文部大臣官房学校衛生課発表 |
学校看護婦ニ関スル件(1929) 文部省訓令第21号 |
養護訓導執務要項(1942) 文部省訓令第19号 |
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位置付け 身分 |
概ね学校医執務の補助者として働くものなるを以て・・・ |
学校看護婦ハ学校長、学校医其ノ他ノ関係職員ノ指揮ヲ受ケ概ネ左ノ職務ニ従事スルコト |
養護訓導は児童の養護のため・・・執務すること 養護訓導は医務に関し学校医、学校歯科医の指導を受けること |
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学校保健計画に 関して |
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学校保健組織活動に ついて |
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養護訓導はその執務に当たり常に他の職員と十分なる連絡を図ること |
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学校環境衛生に 関して |
設備衛生の視察 |
校地、校舎其ノ他ノ設備ノ清潔、採光、換気、煖房ノ良否等設備ノ衛生ニ関スルコト |
学校設備の衛生に関する事項 |
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学校給食に |
学校給食の介補 |
身体検査、学校食事ノ補助ニ関スルコト |
学校給食その他児童の栄養に関する事項 |
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健康診断に |
身体検査の補助 |
身体検査に関する事項 |
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健康相談に |
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健康相談に関する事項 |
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疾病予防に |
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疾病ノ予防、診療ノ介補、消毒、救急処置及診療設備ノ整備並ニ監察ヲ要スル児童ノ保護ニ関スルコト |
疾病の予防に関する事項 |
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疾病を有する児童に 関すること |
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要養護児童の特別養護に関する事項 |
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個別の保健指導に 関すること |
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身体、衣服ノ清潔其ノ他ノ衛生訓練ニ関スルコト |
養護訓導は常に児童心身の状況を査察し特に衛生のしつけ、訓練に留意し児童の養護に従事すること |
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集団の保健指導に 関すること |
衛生教育の補助 調査事務及び講話の補助 |
学校衛生ニ関スル調査並ニ衛生講話ノ補助ニ関スルコト |
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救急処置に |
病気の治療及び診療設備の整理 |
救急処置 |
救急看護に関する事項 |
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保健室の整備・運営に 関すること |
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家庭訪問に関すること |
家庭訪問 |
家庭訪問ヲ行ヒテ疾病異常ノ治療矯正ヲ勧告シ又ハ必要ニ応ジテ適切ナル診療機関ニ同伴シ或ハ眼鏡ノ調達等ノ世話ヲ為シ尚病気欠席児童ノ調査、慰問等ヲ為スコト |
養護訓導は必要ある場合においては児童の家庭を訪問し児童の養護に関し学校と家庭との連絡に力むること |
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その他 |
児童の視察 体育運動の視察 教授の視察 運動会、遠足、校外教授等の勤務 |
運動会、遠足、校外教授、休暇聚落等ノ衛生事務ニ関スルコト 学校看護婦執務日誌其ノ他必要ナル諸簿冊ヲ学校ニ備フルコト 其ノ他ノ学校衛生ニ関スルコト |
学校歯科に関する事項 その他児童の衛生養護に関する事項 |
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Table 1-3 養護教諭の職務内容(試案)の比較 |
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学校保健法解説書(1958) いわゆる16項目 |
日本学校保健会養護部会(1964) いわゆる11項目 |
文部省主催養護教諭中央研修会で示した指針(1995) |
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位置付け 身分 |
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学校保健計画に 関して |
学校保健計画の立案に協力する |
学校保健計画の立案に参画する |
学校保健に関する各種計画及び組織活動の企画、運営への参画及び一般教職員が行なう保健活動への協力に関すること |
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学校保健組織活動に ついて |
学校保健委員会または児童・生徒等の保健委員会の運営に協力する。 |
学校保健活動に参画しその運営に協力する。 |
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学校環境衛生に 関して |
学校環境衛生の維持および改善に留意し、必要な実際的な助言を行い、及び環境衛生検査に協力する。 |
学校環境衛生の維持改善につとめる |
学校環境衛生に関すること |
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学校給食に 関すること |
学校給食の施設、設備の衛生とその維持について必要な助言を行い、及び食物の栄養と衛生に関し指導、助言を行なう。 |
学校給食の衛生管理に当たる |
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健康診断に 関すること |
児童生徒の健康診断の準備をし、且つ実施を補助する。 |
健康診断の実施計画に参画し、必要な検査にあたる。 |
健康診断、健康相談、健康相談活動に関すること |
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健康相談に 関すること |
法第11条の規定による健康相談の準備をし実施を補助する。 |
健康相談の実施計画並びに運営にあたる。 |
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疾病予防に 関すること |
学校医の指導監督の下に学校における伝染病・食中毒の予防処置に従事する。 |
疾病の予防の管理と指導にあたる |
伝染病の予防に関すること |
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疾病を有する児童に 関すること |
児童・生徒の疾病異常の発見、健康観察に従事し、疾病異常の児童・生徒に対する保健指導に従事する。 身体虚弱の児童・生徒に対する保健指導に従事する。 |
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保健指導に関すること (1)心身の健康問題を有する児童生徒の個別指導・健康相談活動 (2)健康生活の実践に関して問題を有する児童生徒の個別指導 |
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個別の保健指導に 関すること |
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集団の保健指導に 関すること |
職員の行なう保健教育に対し、協力する。保健教育に必要な資料、記録等の整備を図る。 |
保健教育に協力する |
保健指導に関すること(1)学級活動やHR活動での指導(2)学校行事での指導 |
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救急処置に 関すること |
児童・生徒の救急処置に従事する。 |
救急看護にあたる |
救急処置及び救急体制の整備に関すること |
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保健室の整備・運営に 関すること |
保健室の設備・備品の整理につとめ、健康診断、救急処置等のための器具、薬品等の管理にあたる |
保健室の整備につとめ、その運営にあたる |
保健室の運営に関すること |
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安全に関する こと |
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安全の管理と指導にあたる |
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家庭訪問に関する こと |
必要に応じ、児童・生徒の家庭訪問を行い、保健指導に関し必要な指導・助言を行なう。 |
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その他 |
保健室の書類、記録、資料等の整備に努め、整理整頓を行なう。 |
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